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★更新日 2015年9月24日★





東京の「日本橋」は「ニホンバシ」と読む、大阪の「日本橋」は「ニッポンバシ」と読みその道の人達には「ポンバシ」で通っている有名な電気店街である。私が初めてこの街を訪れたのは、確か10歳位の頃だったと思う。かれこれ45年、なにかにつけお世話になったこの街のことを、私の思い出と共に綴ってみよう。

■ [工作好き]

幼稚園に通い出す迄は、自宅で洋服関係の仕事をしていた親父の仕事場の片隅が家内での遊び場であった。自称元通信兵である親父の戦利品?であったエナメル線を五寸釘に巻きつけ、それを乾電池に維いで電磁石にして遊んだのが電気工作への第一歩だった。その後成長するにつれ、船形に切った板切れに小さなモーターと電池を積んでのモーターボート、同じく板切れと厚紙で作ったボディーに歯車とモーターを仕込んだ自動車、等々、プラモデルが決して安価でなかった頃、私のおもちゃ工作の材料の主役は蒲鉾の板であった。

その頃、すでに社会人であった姉が、毎月給料日に「少年」という雑誌をプレゼントしてくれていた。いわゆる漫画本であるが、鉄腕アトム、鉄人28号といった人気キャラクターがそろった楽しみな本であった。その広告の中にロケット型のゲルマニュームラジオを観た時、とても興味を引かれ、欲しくてたまらなっかたものだ。


■ [鉱石ラジオ]

小学校5年生の時、教室の本箱に在った科学工作の本に「鉱石ラジオのつくりかた」が載っていた。興味深々である。材料は、バリコン、コイル、鉱石、それにクリスタルイヤホン、それだけである。実体配線図をみて、その中で、一番高そうなバリコンが家に在ることに気づいた。もちろん部品として在った訳ではない。今は使っていないポータブルラジオの中に、同じ様な部品が使われていたのを思い出したのである。早速その電池管のラジオを分解する許可を家族からとりつける。多分故障していた訳では無いと思うが、B電源用の電池が結構高価であった為に使わなくなったのであろう。常用のラジオは松下製の大きな5球スーパーが健在であった。 

これでバリコンは手に入った、中型の2連バリコンであったが片方だけ使えば良いのだろうとの感だ。他の部品を買うため、初めて、一人で日本橋に行った。天王寺駅前から4番の市電に乗ればこの街を通ることは知っていた。この市電の終点は、淀川に架かる長柄橋のたもとである。夏休みなどに近所のお兄さん達に連れられて、魚釣りや、わんどでの水遊びに何度か行ったことがある。その時の往復の車中からこの電気店街をいつも眺めていたのである。

■ [五階百貨店]

日本橋4丁目の停留所で市電を降りた。ちょうど五階百貨店の前あたりだったと記憶している。この五階百貨店については、名称、場所にはっきりした定義がないようで、詳しくは他の諸先輩のサイトを参照していただくとして、私の記憶にある五階百貨店について少しふれてみよう。場所は現在の3階建の五階百貨店が在る場所で、堺筋まで面したトタン屋根の平屋で、屋根を支える木製の柱だけで、間仕切りもない土間に(一部には簡単な仕切りが有ったかも?)、各店2〜4枚程の戸板を並べ、その上に茣蓙を敷き、商品を並べて売っていた。今でいうガレージセールに柱とトタン屋根をかぶせた様な建物?であった。

売られている商品は多岐に亘り、工具関係が多かったが、衣類や、運動用具、靴等も有ったように記憶する。中でも興味深かったのは、大小のスピーカーユニットだけを並べ他の部品は一切置いていないスピーカーユニット専門店、ドリルのキリ先だけを専門に並べている店、といったユニークなお店も何軒かあった。何時の頃かその平屋が取り壊され、現在の3階建てに建替えられ面白くなくなった。

この建物のすこし南西にも「日本橋五階百貨店」の看板を掲げる一角がある。こちらの方はいわゆるレインズといった趣で、中古の白物家電製品を中心に、中古オーディオ店や楽器店、古着店(現在では新品であろう)、アンティーク店等が軒を連ねている。

話を元に戻そう。コイルとイヤホンと鉱石が必要であるが何処で売っているのか検討もつかない。通りの東側を北の方に歩いてみた。なるほど電気屋さんだらけである。河口無線さんのショウーウインドーには、直径1m程もありそうな馬鹿でかいウーハーユニットがこっちを睨んでいる。何だか解らないが高級そうな店である。

もう少し北の小さな店先にスイッチや端子類、パイロットランプやベークライトの円筒等が並べられていた。その脇には穴の開いたアルミの箱も積んである。細長い店の中では、元気そうなお母さんとお父さんがお客の対応をしていた。現在の場所より少し南側に在った中野無線さんである。ここで尋ねてみることにし、事情を説明した。さすがプロである、すぐにスパイダーコイルを巻く台紙と鉱石、クリスタルイヤホンを揃えてくれ、「コイルの巻き方解るんか?」と心配してくれた。「本に書いてるからその通りにやってみるわ。」と答え、ついでにバリコンのツマミも一つ買って部品の調達は完了である。

coile koseki


家に帰り、早速製作に取りかかった。まづはスパイダーコイルを学校から借りてきた本の解説どおりに中間タップを出しながら巻いていく。ラジオを作っているというより、編み物の手芸をしているような感じである。コイルが出来上がれば後はそれぞれの部品を繋ぐだけであるが、部品を固定する土台も必要である。例によって蒲鉾の板とベニヤ板が初めて作るラジオのシャーシになった。

どのようにして部品を固定したのか詳細は覚えていないが、ここで一つ問題が生じた。半田づけの道具が無いのである。鉱石(現在のようにガラス粒からリード線が出ているのではなく、単5の乾電池より一回り細い円筒の中心に方鉛鉱が入っていて、両側の蓋兼電極からスプリングで押さえていたように思う。付属の小さなL型金具を両端に配置し、ホルダーとして使用する)への結線はホルダーを留める真鍮の木ネジに巻きつけるとして、バリコンの端子には半田づけの必要があった。半田ゴテはまたの機会に買うことにし、とりあえづは端子にエナメル線を巻きつけて完成となった。

イヤホンを耳にあててバリコンを回してみる。何も聞こえない。アンテナのことを忘れていたのだ。アンテナと給電線の区別など知る由も無く、とにかくアンテナは屋外でなければと例のエナメル線を2メートルほど窓の外に水平に張り、その中間から5メートルほどの距離を同じ線で鉱石ラジオまで曳いてきて繋いでみた。感動の一瞬である。静かにバリコンを回すとラジオ放送が聞こえてきたのだ。はっきりと聞き取れたのは4局程度であったと思うが、小学生の私には大感激の大成功であった。

この鉱石ラジオの成功により、私と日本橋の関わりが始まった。「初歩のラジオ」「ラジオの製作」等の雑誌にも興味を示すようになり、鉱石ラジオの次は、プラスティックケースにロッドアンテナでも受信出来るゲルマニュームラジオに発展していく。学校や近所の友達をもまきこんで何台か作った。

 

■ [ラジオ少年時代]

そんな頃だったと思う、母方の親戚から送られてきた荷物の中に、スルメイカやワカメに囲まれて、一台の古ぼけたSANWA製のテスターが入っていた。私の趣味を知っていた親戚のおじさんが送ってくれたのだ。モードやレンジの切替もロータリースイッチではなく、リード棒を差し替えて使う古いタイプである。早速試してみたが、どのモードもピクリとも動かない。電池を交換してみたが、やはりだめである。修理に出そうと決め、当時は本店一店舗で営業していた上新電機さんに修理をお願いした。小学生の修理依頼にも大変親切に対応して頂き、2週間程で、見違えるように綺麗になったテスターが戻ってきた。

その頃から日本橋通いも頻繁になり、アクセスのバリエーションも増えた。天王寺まで歩かなくても、家の近くに停留所のある南海平野線に乗れば、終点の恵美須町まで直通で行ける方法も判った。しかし、今でこそ恵美須町のあたりまで賑やかになっているが、当時は日本橋5丁目の停留所あたりから南側は、数えるほどしかお店はなかったので、結局お目当てのエリアまでは少しの距離を歩かなければならない事になるのである。帰り道は散歩がてら通天閣の下を通り、動物園の横から市立美術館前の階段を上がり、天王寺公園を横切って歩いて帰ったりもした。中学生になってからは、専ら自転車が私の交通手段になる。日本橋まではどの道を通っても3km以内であったので20分もあれば到着する、しかし、上町台地の頂上に在る我が家までの帰り道は、少しきつい上り坂を息を切らして乗り切らなければならなかった。

中学ではラジオ倶楽部に所属し、いよいよラジオ少年らしくなってくる。6C6単球ラジオを始めに並3、5球スーパーへとエスカレートしてゆく。この頃の日本橋には真空管の専門店が何軒かあった。現在のように、ほとんど趣味の人達を相手にするのではなく、家電修理のプロを相手にした店である。当時は、ラジオもテレビも真空管式である。街の電気屋さんの修理技術も高く、自分の店で売った品は、自分で修理するのが常であった。東京真空管商会さんもそんな真空管専門店の老舗である。が、ぶっきらぼうな東京弁の先代は少し近寄り難く、若輩者の私にとって敷居の高いお店であった。

先の、中野無線さんの筋向いあたりにも、新品の綺麗な箱を棚一杯にびっしりと並べた、プロ相手の真空管の専門店が在ったが、私がよく真空管を買い求めたのは、店の名前は忘れたが先の5階百貨店の南向かいの角で、一坪ほどのスペースでおばさん一人で商売をしていたお店である。ST菅はほとんどが中古品であったと思うが、とにかく安いのが有りがたかった。ぼつぼつトランジスタも出始めていたが、2SB77が一個600円位したのに対し、中古の6ZP1は1本150円位で買うことが出来た。中学生の小遣いでは、壊れやすいトランジスタはとても買える代物では無かったのである。

真空管の入手ルートはもう一つ有った。家からそう遠くない阿倍野墓地の北側に、今で言うリサイクルショップのような店があった。中古の自転車や、タイヤとチューブ、空気入れ等の自転車関連品を中心に、様々な古道具が山積にされていた。勿論、私の標的は木製ケースの古いラジオである。どこかで廃品を回収して来た物だろうが、私には宝物のように見えた。一台200円ほどで買ってきては、バラバラに分解し、真空管や使えそうな部品は利用した。木製のケースも色々なラッカーで綺麗に塗装し直し、並3ラジオを組み込んだり、スピーカーボックスにしたりと再利用させてもらった。

  その頃、私がよく部品を買いに行ったお店を思い出してみよう。一番よく通ったのは二宮無線さんであろう、現在の本店の2階に部品売り場があった。売り場といっても、部品が並べてある訳ではなくカウンターの係りの人に欲しい物を伝えて、奥の倉庫から揃えてもらうのである。売る方は勿論のことだが、買うほうもそれなりの知識が要求された。お名前は忘れてしまったが、この売り場に部品の神様みたいなおじさんが一人いらっしゃり、いつもお世話になったのを印象深く覚えている。

中川無線さんの部品売り場にもよく足を運んだ。こちらも現在の本店で、家電製品売り場を通り抜けて、一番奥の階段を2〜3段降りた場所が部品売り場になっていた。ここは、ある程度の部品は棚に並べられていて自分で小皿にチョイスし、棚に無いものはカウンターで揃えてもらう方式だったので買い易かった。折からのオーディオブーム始まりの頃で、沢山のお客でいつも賑わっていた。

今では殆ど見かけなくなったが、ジャンク屋さんも幾つかあった。取り外し品や、横流れ品であろう色々な部品がごちゃごちゃになって売られていた。サランネットの切れ端や、ポータブルラジオのハンドル、色んな長さのロッドアンテナ等、普通の部品屋さんでは手に入らないような物を探す時は大変重宝したものだ。ジャンク屋さんのハシゴで半日は十分楽しめた

スピーカーボックスとレコードプレーヤーのケース、オーディオラックを専門で扱うお店も2〜3軒あった。偶然、それらのお店のオリジナル商品を製作している木工所が、家の近所にある事を知り、日本橋のお店には内緒ということで、友達の分も含め、何度か直接譲って頂いたこともある。大人の社会ではルール違反であろうが、貧乏学生の身には大変ありがたかった。

■ [無線かオーディオか]

中学を卒業し、あまり成績の良くなかった私は、工業高校の電気科に進学した。私たちが第3期生となる新しい学校である。ここで、普通ならラジオ少年が選ぶであろうクラブ活動は「アマチュア無線クラブ」であろう。入学して直ぐに仲よくなった級友からも、無線部への入部を誘われた。少し迷ったが、管楽器演奏への興味の方が強かったのか、結局、私が選んだのはブラスバンド部である。1年生の時はクラリネット、2年生から卒業するまでアルトサックスを担当した。決して上手ではないバンドであったが、やはり生演奏はレコードやラジオで聞くより迫力があって良いものである。

ブラバンの部活と平行して、オーディオ好きの3人ほどが中心になり、「オーディオ同好会」を発足させた。部室も無く、普段はあまり活躍出来なかったが、文化祭では自作品を持ち寄り、一部屋を使って、展示や実演をした。アイドラー式のを改造した糸ドライブのターンテーブルに、木片とロッドアンテナのパイプで作ったトーンアームを装着したレコードプレーヤーで、3Dシステムを鳴らしてみた事もある。非常に手先の器用なメンバーの一人が、なんとMM型のカートリッジを完全自作してしまった事には驚かされた。

高校2年生になった頃からは、興味の矛先もオートバイやスキーと移っていき、半田ゴテに代わって大きなスパナやモンキーを手に、アルバイトをして中古で買ったバイクの整備に時間を費やすようになった。 このバイクを買ったのも、堺筋にある日本橋電気街から程近い松屋町筋の、南の終点近辺に数十軒が軒を連ねる、これまた大阪では有名な中古バイク店街である。

高校を卒業して就職したのが、某AVメーカーのサービス部門であったので、ディーラーさんの多い日本橋とのお付き合いも途切れることはなかった。ただ、紺屋の白袴というのか、オーディオ装置の自作はあまりしなくなり、会社の特売で安く手に入れた装置を並べてお茶を濁していた。その後、職業を180度位相反転してからしばしの間、日本橋とも少し疎遠になる。
その後28歳の時に、友人のヨットと交信する為に突然始めたアマチュア無線、そして再び弱電に関係する仕事に就くことになり、部品屋さん通いも再開、35歳にもなってさわり始めたパソコン、55歳になって再び真空管アンプの製作を再開した現在(2005年時点)まで、ラジオ、オーディオ、アマ無線、パソコンと、私の趣味の遍歴と共に通い続けた日本橋である。       



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アマチュア無線設備(1999年 8月 頃 )

                                               
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